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13 機能主義

 

 「形態は機能に従う("Form follows function")」という言葉で広く知られ、又用いられてきた概念である。言いだしたのは、十九世紀半ばのアメリカの芸術理論家のホレーショ・グリーノウ(Horatio Greenough)で、こういう警句のような短い言葉にまとめ、世間に流布したのは建築家ルイス・サリヴァン(Louis Sullivan)ということになっているが、彼等がどういう意図でこういうことを言ったのか、あれこれ詮索しても、あまり意味あることとは思われないので、ここでは行わない。

 どういう意図で発せられたにせよ、この言葉は、二十世紀前半のモダニズム建築の成立に絶大な力を発揮した。機能を科学的に捉えることから、建築のかたちが合理的に導き出せるのなら、設計は誰にでも可能になるし、美しいとか正しいとかいう難しい議論もいらなくなる。歴史的様式にはかたちを決める力が無くなるから、そうした教育は一切不要になる。機能主義による設計が、ただちに可能でないにしても、そう信じ努力するだけで、世界は単純になり、未来に明るい希望が持てる。

 

 私が、建築を学び始めた1950年代末は、大学の中でも、外でもほとんどの人がそう考えていた時代だった。アメリカで働き始めた60年代の始めも、ハーバードでバウハウス流の教育を受けたボスは、プロジェクトの開始と共に、スケッチを始めた私に「"No preconception!"」と叫んだものだ。かたちのイメージを始めに持つな、スタディの結果として最後に出せ、というわけだ。

 しかし、そう叫ばれたところで、何かのかたちのイメージなしに、設計が始まらないことは、誰でも実際に設計に取り組んでみれば、ただちにわかることだ。機能のスタディとかたちのイメージは、並びながら、あるいは後になったり先になったりしながら、進行していくものなのだ。

 建築であれ他の道具であれ、機能、すなわちはたらきを持つものを考えて作っていくためには機能のスタディは不可欠だ。それをできるだけ定性的に把握し、更に出来得れば定量的に、寸法、重さ、強度等々が規定できれば設計に役立つ。従って、そのための研究は有意義なことは言うまでもない。しかし、建築をつくり上げている様々なかたちの機能について、定量的な把握ができるかというとそれは難しい。難しいどころか、定性的に把握するだけでも不可能な場合がほとんどだ。何故なら、建築の機能は、複雑で多様で、互に両立し難く対立していたり、場合に応じて変化したりするものだからだ。測定可能な性能は、建築の構成要素を小さくとって、かつそのひとつの性質、性能をとり上げた場合にようやく測定可能となるにすぎない。

 すなわち「形態は機能に従う」と言われても、機能から形態を導き出すことは、形態のほんの一部においてしか可能ではないということなのだ。では残りの部分はどうなっているのか、ということになる。だって実際に人間は建築や道具のさまざまなかたちを作り、使いこなしているのではないか。それはどうなっているのだ。

 それは、「形態が機能に従う」だけでなく、一方で「形態が機能を与える」ものであることによって可能となっているのである。すなわち「形態から機能は見出され」たり「生まれ出たり」するものなのだ。

 設計者が機能にかたちを与えようとして格闘している。画面の上には、いろいろなかたちが浮かんだり消えたり、ぶつかったり重なったりしている。その時、意図しているかたちの外に、絶えずかたちが生まれたり消えたりしている。時に設計者は、そのかたちのひとつが、これまで実現できていなかった機能が、見事に生み出されていることを見出す。良い設計とは、そういう発見の繰り返しであることは、設計者なら誰でも絶えず経験している。そして同じような経験は、建物が完成した後、思いもかけなかったところに、思いもかけなかった面白い使い方を見出した住み手にも与えられるし、更に古くは、たまたま拾った石片に、物を削るはたらきを見出した石器時代の人の経験に通じている。

 

 人類学者のレヴィ=ストロースは、原始人が、丁度現代フランスの日曜大工と同じく、たまたま手元にあるものをうまく使う能力を見出し、「プリコラージュ(素人大工=器用術)」と名付けた。設計とは、今日でも、「機能主義」と、それを補完する「器用術」とのからみあいのうちに進行し、私達の生を動かしているのである。

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